〜日記のようなコーナー〜

2001年3月26日
版画家引退?
以前(ここに書いてなかったかな?)友達にメールで書いたか電話で話したかしたことがある。絵は100才になっても描ける。私は何て幸せな道を選んだのだろう。と。
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でも、他人の手をわずらわすことなく、ひとりで描くためには、版画は限界がある。作業の細かい手順が、例えば身体が動かなくなったら、まず石版画は出来なくなるだろう。ピカソやシャガールの80才の時のリトグラフなんか売ってるが、あれは本人は下絵だけ描いて、職人に刷ってもらっているので、版画制作をしたとは言えない。そうなってくると、やはり技法がどうこう言う前に絵はやっぱり中身に魅力がないといけないなあ、と、あたりまえのことだが実感する。
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しかも最近、石版画を続けられる限界が、予定より急速に早くきてしまうことがわかった。私の体力が急速に衰えたわけではない(確かに体力にはあんまし自信無いけど)。材料が手に入らなくなってしまったのだ。石版画は、つい、うっかり21世紀を迎えてしまったが、本当は20世紀でもう消え去るはずだった。
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まず、版画人口がヨーロッパでは激減し、老舗のメーカーが次々倒産。国内ではもともとあまり人気がなかったので、メーカーさえできなかった。すでにここ数年、代用品を探したり、版画を断念して道具を手放したい人から譲ってもらったり、そんな段階にきている。そこまですれば、あと10年かそこら伸ばすことはできるが、そうすると、まるで伝統芸能保存会の人みたいになってしまい、自分勝手なことができなくなってしまうし、それは私の役目ではないな、と思った。
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今年に入ってから、石ではなく金属版も併用しているが、私の場合同じ絵を何枚も描く意味も近ごろ薄れて、写し取った時の偶然の効果を楽しんだり、途中で気が変わって色を変えてみたり、1版多いのや少ないのを作ったり、遊びの部分が多い。それが楽しくてやっているわけで、もしも道具が希少価値をもってきたりしたら、そんなゼイタクな遊びをするつもりはないから、別の方法をそろそろ考えなくてはならない。
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そんなわけで、長くなってしまったが、今度の11月にやる個展で、きっと石版画での展覧会はもうできないだろうと思う。まったくできなくなるとは言わないけど、別の版画を始めるか、油絵に力を入れていくか、CGのほう(もっとメモリ積まにゃ〜)でいくのか、いろいろ考えていきたいと思う。
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ま、いずれにしても何らかの方法で絵は100才まで描けるし、ボケても寝たきりになっても描けるはずである。もしもこれを読んだ人で、60年後に私と会って、描いてなかったら「うそつき!」と言っていいよ。

2001年3月22日
鑑真和上展
母が「ガンジンワジョウ見たか?」と突然言うので驚いた。
「見てないけど、そろそろ終わるんじゃない?もう行くヒマないよ」と言うと、「なんで〜?!わざわざ京都まで行っても見らんないのを東京に持ってきてるのにっ!東京に住んでるのにっ!」と妙に熱く語る(唐招提寺は奈良じゃないっけ?)。25日で終わるし、混んでるだろーなーと思いながら、おととい上野まで見に行った。
案の定、都美館の外まわりをぐるっと行列が囲んでいる。半分以上がお年寄り。65才以上は無料とはいえ、こんなに並んでは、倒れる人とか出ないだろうか?と心配になる。
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私は普段コンサートなどのチケットは前売りを買っても見に行けなくなると困るので当日券で見ることにしている。なのにその日にかぎって、何の考えもなくJRの窓口でイオカードを買ったとき「鑑真和上展の入場券あります」といわれて素直に買ってしまったのだ。公園に入ってから「しまった!」と思った。
他にも同じように駅で買ったオジサンが、係員に「サギだ!」と食ってかかっていた。私は「仕方ない。今週中なんとかして平日の昼間行こう」と帰りがてら、アンケート用紙にしっかり「駅で券を買ってしまったが、ここに来てみたら混んでて入れなかった。無責任だ」と書いて入れてきた。
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今日(木曜)朝一でやっと見に行った。しかしやっぱり混んでいる。休日と比べ、ほぼ全員が老人。混んでいるし暑いし、老人を心配するより私が倒れそうだ。展示品はほとんど見えやしない。
あまりにも進みが遅いので、もしかして、そーかなー・・・と思ったが、やっぱり・・・
和上の像を前にして、拝んでる人がいた。うん。それはそれで何かイイかも。でも音声ガイド用のヘッドフォン着けてうっとり目をつぶっている様子を見てたら、ウオークマンのCMの猿を思い出してしまった。

2001年3月19日
フジモリ元大統領が仏像を語ってる!
・・・と思ったら平山郁夫だった。(わかりづらい?)
世界中からブーイングだね。アフガンの偶像破壊。でもねえ・・・(私までブーイングあびると何だけどね)私達はあの仏像をすばらしい美術品として見てるから「壊すなんてもったいない!」と騒ぐけど、作った人たちは美術品を作ったのではなくて、祈るモノを作ったし、壊す人にとっては異教徒のモノだから価値なんてない。
おかしなことに、作った人と壊したい人の気持ちは同じ地点に立っていて、まわりで騒いでいる人のほうが「タマシイ」を無視してるような感じがして、私には「壊すのは許せん!」とは言えない。
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エジプトの歴史博物館に行ったら、石像のほとんどが鼻がなかった。スフィンクスとかピラミッドとかを作った時代の、次に支配した人達が、見せしめのために鼻を撃ち落したのだった。その次に支配した人達は、自分たちの宗教のシンボルを刻みつけたりしていて、大昔の文字が読めなくなってる。
インカの人達の黄金の像を入植者達はタダの金の延べ棒にして持ち帰った。神殿の石組みを土台にして教会を建てた。こんなふうに、ソレを祈りたいひとと、そうでないひととで、作ったり壊したりして歴史は進んできたんだなあ、と古代遺跡をみてるとそう思う。
だから、壊す人のことをむやみに悪く言う人々を見てると「自分だって〜」とちょっと思う。
決して平山郁夫が嫌いなわけではない。

2001年3月17日
癒しすぎに注意!
今、美学校のアートスペース(?)でトンチキアートクラスの阿部ルイ子ちゃんという女の子がインスタレーションを行っている。「にゅるもこ大作戦」といって、部屋いっぱいにふわふわしたものが敷きつめてあり、その中に入って和むことができる、というものだが、今日行ったら知らない人が眠っていてピクリともしないから、怖いので入らなかった。
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3/14〜28まで、美学校4F神保町スタジオ(問合せ03-3262-2529)

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