〜日記のようなコーナー〜

2003年8月3日
シャヒード、100の命-パレスチナで生きて死ぬこと-
    
このところ、パレスチナのことを考えないようにしていた。
毎日のように聞こえていた「自爆テロ」に嫌気が差していた。
日本人のアイデアとイスラムの精神が結びついた、この悲しい戦い方は、
9.11以降ますます背後の悲しい思いなど感じない、単なる自殺行為としか
私自身が、感じられなくなった。
「日本人のアイデア」と書いたのは、特攻隊や赤軍のテルアビブ空港襲撃が
その後のアラブ人の考えに影響を与えたのは明らかだからだ。
9.11を「カミカゼ」と呼ぶ人がいるが、何も反論できない。
    
でも、時々はパレスチナ関係の掲示板などは覗いていた。
そして、今月大規模なイベントがあり、それにゲストとして
パレスチナでお世話になった美術館の館長の来日を知った。
アディーラについては、パレまんのコーナーにも少し書いた。
ハリル・サカキーニ文化センターを運営する館長で、
さまざまな展示企画を立ち上げ、HPも管理し、
抵抗運動にも参加し、積極的に日本の団体とも連絡をとる、
知的な女性で、一児の母でもある。
英語の苦手な私にはスペイン語で話しかけてくれた。
彼女の来日は、展覧会に関係したシンポジウムに出席するためだ。
私を覚えていてくれて、やはりスペイン語で話しかけてくれた。
「家族は元気ですか?」ときくと
「あなた達が来た時には赤ちゃんだった娘も4才になったわよ!」
      
展覧会の内容は、重いものだった。
2000年9月末に始まった第二次インティファーダ
(イスラエルの占領に対するパレスチナ人の抵抗運動)で亡くなった人達を
追悼する現代美術の展覧会で、ひとりひとりの写真と遺品が展示されている。
       
ニュースでは「死者何名、けが人何名」という数字しか聞こえてこないが、
そのひとりひとりに、名前と顔があり、家族がいて、記憶があった。
死んだのは数字でなく、人間なのだ。
私に、名前があり、顔があり、家族がいて、思い出があって、友達がいて・・・
それとまったく同じことだ。
      
テレビのニュース映像で有名になった
「銃撃戦に巻き込まれた男の子と、必死にかばおうとする父親」
その時亡くなったムハンマド君の靴が展示されていた。
あの映像を見て、何で彼らは逃げられなかったか、誰にも助けられなかったのか、
疑問を持っていたのだが、今回、同じように展示された遺品の中に、
赤新月社(赤十字のアラブ版)の救急車の運転士バッサーム氏の物があった。
彼は、あの時あの親子を見て、すぐに救助に向かい、撃たれて即死したそうだ。
つまり、あの親子に、生きて近づけた人がいなかった・・・。
      
     
あー、あんまし感情移入しちゃうと、
戦争を美化するように聞こえるといやなのでー、
えーと、もうやめます。・・・って、もうずいぶん書いちゃったけど。
展覧会は8月1日の東京を皮切りに、京都・沖縄・松本・大阪にて開催され、
各地でもシンポジウムとレクチャーが開催されます。
     

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