〜日記のようなコーナー〜

2000年10月26日
失言と政策漏れは違うと思うけどねえ。
連日、森総理の「失言」問題で、海外のニュースが入らなくなってしまって迷惑だなあ。それに、今までの「失言」は「この人バカじゃん?」で済む程度だけど、北朝鮮の話題は出ちゃいかんモノが出ちゃってないかい?ヤバくねえ?
普通の会社なら内部事情を漏らしたら、クビか地方に飛ばされると思うけど、政治家ってイイねえ・・・。

2000年10月20日
オリンピックのアボリジニのあつかい
シドニーオリンピック、開会式の聖火の点火選手がアボリジニだったり、閉会式にも多くアボリジニ音楽やダンスが取り入れられていて、いかにも民族の共存を表に打ちだしていたが、ほんのちょっと前、同じオーストラリアでもメルボルンが開催地だった時は、出場者は白人に限られていたくせに。
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アボリジニ族は、他の多くの国の先住民と同様、悲惨な歴史を持っている。まるで鹿狩りでもするように「アボリジニ狩り」が行われた、など人間としてあつかわれなかった。現在アボリジニ族で生き残っている人でも、居住区に押し込められ「観光用見せ物」になって細々生きるか、町に出ても働き口がなくてホームレスするか、どちらにしても暮らしは楽ではなさそうだ。

2000年10月14日
ウカマウ映画(2)
さて、今日のウカマウ映画は1本目モノクロの「コンドルの血」2本目最新作「鳥の歌」だったが、先週と同じ2時始まりだとばかり思っていたので、「コンドルの血」は半分しか観れなかった。アホや〜。
監督の「対話」も、ゲストの鵜飼さんしゃべりすぎ!であんまし面白くなかった。鵜飼さんは、去年韓国人作家ヤン・ソギルさんとの対談が結構面白かったんで、うまいことマニアックな話しを引きだしてくれるかなーと期待したんだけど。
でも先週ギモンに思ったことが解決した。というのは、商業映画ではないので自主制作、自主上映だといいながら、ボリビアでは38万人(ラパスだけで18万人)の人が映画を見たといっていたので、どうやってそんな大勢の人が見たのだろう?と思っていたら、一般の映画館を借りられたのがたった2週間だったので、思い立って、閉館してほったらかしになってた元映画館を自分たちで修復して、そこで上映したらしい。自主上映ここに極まれりだねえ。
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「鳥の歌」は、「スペイン人の征服」の様子を映画のロケにきたグループが、知らず知らずのうちに村人に対して失礼な態度をしてしまう、という自己批判、というか、自己パロディみたいな映画で、今までのウカマウ映画のような悲惨さはなく、笑ってしまうような場面もあり(爆笑、ではなくてヒニクな笑いだけど)美しい衣装や音楽を楽しめました。どうせならもっとお祭りの場面を多くして、ミュージカル映画にしてくれればいいのに。
1本目の「コンドルの血」に出てきた「コカの葉占い」が再び出てきたり、村長さんの役の人が先週観た「地下の民」の主役のサバスチン(セバスチャン、だけどこう聞こえた)の役の人だったり、いろいろリンクした感じが、まるでキャンディーズの「微笑がえし」みたいだな、と思った。例えが古いか。松田聖子もこんな曲出してたな、これまでのシングル曲のタイトルが全部歌詞の中に折り込まれたやつ。
「白人はマイアミにでも行ってろ!」というセリフが何度も出てくるので、これは流行ってるんかいな?テーマ曲の「para recivir el canto de los pajaros」の歌と、トヨス(低い音の出るアンデスのすごくデカい笛のことネ)の音がすごく良かった!これは12月にサントラ版が出るらしいので、見かけたら買いたい。(見かけるのかな?)

2000年10月8日
ウカマウ映画
「ウカマウ集団」というボリビアの自主制作(&自主上映・・・これはしょうがないだろうなあ)の映画上映と、その監督によるレクチャーというのがあった。くわしいことは現代企画室という出版社のページで。ウカマウ集団そのもののページもそこからリンクしてる。
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映画1本めの「第一の敵」はモノクロで、地主にひどいめにあっていた村人達のところにテロリストがやってきて、のちに協力して仕返しをするんだけど、それでおしまいではなくて、最後にもっと大きな別の敵がある、といろいろ考えさせられるテーマだけど、何しろ「古い映画」ということでちょっと冷静に見れて、重苦しい気持ちにはならなかった。
2本目「地下の民」は主人公が先住民であるコンプレックスから、名前を都会ふうに変えて町で生活するんだけど、夢破れて故郷にもどり、でもせっかく暖かく迎えてくれた故郷の人達をうらぎるようなことをしちゃって、また村から追い出され、・・・という感じの、ドラマ仕立てになっていて、映像もカラーでファンタジックぽくて(踊りの衣装がきれいだし)悲しい場面もあるけど、すごく面白かった。
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「第一の敵」はケチュア語(おもにペルーの先住民の使う言語のこと)、「地下の民」のほうはアイマラ語(おもにボリビアの先住民が使う言語)が中心で、スペイン語をしゃべるのはある限られた人、地主とか、軍人とか、つまり悪役だった。とくに「第一の敵」で判事が村人の訴えを聞いて、ケチュアからスペイン語に訳して書いていくんだけど、そこであからさまに事実をねじまげていく。これは「ありそうだな〜」と思った。
また、「第一の敵」に出てきたテロリストは、よくケチュアを話し、ケーナを吹いたりして村人とすっかり打ち解けるんだけど、「地下の民」では学生運動をして軍人に追いかけられてる青年が、アイマラの人にかくまってもらおうとするんだけど、言葉が通じなくて、「インディオ・ミィエルダ(畜生)!」と叫ぶ場面があって、「民衆のための運動さ!」なんて言ったくせに・・・って、うわべだけの「運動」を痛烈に皮肉ってる感じがしました。
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監督のインタビューで面白かったのが、ボリビアでは映画会社も俳優もいないので映画を撮る準備のひとつに俳優を育てるというのもあった。とくに「地下の民」の主人公は「背の高い(!)アイマラの男」という条件だったので、なかなか見つからず、たまたまクレーン車を組み立てる職人にピッタリな人がいたので、スカウトして1年かけて演技の勉強をしてもらったとか。
踊りの衣装は、主人公の回想シーンの踊りでは時代考証にのっとたもの、主人公が職人に発注して作らせる衣装には、オリジナルのものを、と意識したそうだ。お面づくりの職人を探すのもたいへんだったが、問題は作ってもらうこと、かぶって踊ってもらうこと、の2点だった。というのは、この踊りは「死ぬまで踊る」「仮面を作ったひとは早死にする」という言い伝えがあるもので、ストーリーもそれにのっとってるから、「大丈夫、死なないから」と説得するのは大変だったらしい。そういう話しは日本の映画でもよくありそうな怪談噺で、笑いをさそっていた。
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監督への質問の多くが映画のことよりも、ボリビアの伝統や、農民や鉱山労働者の生活状況について、など。ちょっと意外だったが、そもそも映画で訴えたかった内容がこういうものなので、それでいいのかもしれない。
おりしも、ボリビアは今たいへんなことになってる。ついおとといにもデモで何人の死傷者が出たとか、こういうのも話しはじめたら終わらないので、司会の人が必死で話しを区切っていた。新聞とか年表とか、そういう参考資料があったらよかったかも。スタッフが大変か。
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監督はまだまだまだ話したりないぞ〜!という様子だが、会場の都合(映画2本の後だから時間も時間だった!)などで打ちきりとなった。

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