- 〜日記のようなコーナー〜
- 2000年5月28日
- 赤毛のアン
面と向かってブスと言われなくなったのは、女子高だったからかもしれない。お互いに気を使うようになったのもあるが、私が思うに女子高生というのはいつでも誰でも「自分は世界一ブサイクかもしれない。デブで、ブスで、バカで、世界一ダメな人間かも。」と思っているものだから、他人のことをブスとか言ってる余裕はない。
若者が自分のことを追いつめる姿はいとおしい。ときに痛ましいけど。
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同じころすごく悩むのが「本当の友達ってなんだろう?自分にはいないのではないか?できないのではないか?」ということだ。
- 40歳近く(ウソォ!)なった今でも、その答えは見つからないけど、そんなことどうでも良くなっている。時々自分の仲の良い友達を人に紹介するとき「私の親友の・・・」と言っていいか迷ったうえ、結局今まで言ったことがない。
「赤毛のアン」でアンとダイアナが親友の誓いをする場面が、子供心に違和感あった。親友になるには、いちいちお互い口に出して誓わないといけないのか。では、ずっと今までも友達の子にいつ言い出したらいいのか。言い出して断られたらどうしたらいいのか。これではまるで好きな人に告白するみたいではないか。
私は「赤毛のアン」のせいで「親友」という言葉の敷居が高くなったのだ思う。
- 2000年5月25日
- めずらしいイタ電
イタズラ電話の定番といえば「ハア、ハア、ハア、」とか「パンツ何色?」(もうこんな奴いないか?)とか、ヤラシイのばっかりだと思っていたら、昨晩はめずらしいのがきた。
ひたすらずうっと「ブス、ブス、ブス、ブス、」と言い続けているのだ。(見たんかい?!)
ブスって言葉は今も生きているんだなあ、と妙に感心。
そういえば、しばらくそんなことは言われてない。いや決して私が美人になったわけではなく、まわりが大人になったから、そんなことを言う奴はいないだけなのだが。考えてみれば子供ってストレートで残酷だったなあと思う。
- んなイタ電キッカケに感慨深くなってどーする!
- 2000年5月22日
- 求む。「死なない男」
- ジャンボ鶴田が死んだ。プロレスマニアから抜けてしばらく経つので、彼が引退してたことも知らなかった。ついでに、新日本プロレスの社長が藤波に、全日が三沢になっていたのも初めて知った。良い人選だなあ、と感心。
- いや、そんなことより鶴田。私はとくにファンではなかった。どっちかというと「あんまりやる気なさそう」に見えた、サラリーマン・レスラーと呼ばれていた鶴田は好きでなかった。でもすごく強かった。死んだ人を悪く言う人がいるはずないが、皆が口をそろえて「天才だった」と言うのもわかる。(合掌)「さっさと試合してさっさと帰る」ように見えたのはそれだけ強かったからだ。
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- だからといって、「やるぞやるぞ、オレはやるぞ」系のレスラーが好きだったわけでもない。何と言っても私が好きだったのはアンドレ・ザ・ジャイアントなのだった。でも悲しいことに、彼もとっくに「故・アンドレ」なのだ。彼についてくわしくははまた別の機会に語ろう・・・
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- プロレスマニアをやめてしまった理由はいくつもあって、「超・マニア」の話についていけなかった、金銭トラブルに巻き込まれた、他にオモシロイことに出会った、の3つぐらいで、とくに3つめは大きかった。マニアを2つも掛け持ちする体力もお金もない。
- アンドレが死んじゃったのは、ちょうどそんな頃、だんだんプロレス雑誌を買わなくなった頃。
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- 新しく出会ったモノとはフォルクローレだった。初めて出会う胸をしめつけられるような、何とも言えない音と、遠くからやって来て、すぐそばにいるあったかい人達と、わかんないスペイン語で手探りの会話。これはけっこう気力も体力も要った。
- そして、第一回「ペルー人との別れ」。と言っても、恋人との別れのような色っぽい話ではない。ビザが切れたり、日本の冬に耐えられなくて続々帰国する人、クリスマスで里帰りする人、そういうのが集中する冬。今では慣れっこになってしまったが、そういう「寂しくなる季節」の初めての時は、やっぱり本当に悲しかった。なにせ、地球のウラ側だもん。もう二度と会えないような気がした。
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- そんな悲しい時に、アンドレまで死んじゃった。さすがは「世界の大巨人」ふつうのニュース番組で臨時ニュースが入ったのだ。
- ちょっと見てないうちに、こんなことになってしまうなんて。大巨人が死ぬなんて。プロレスラーが死ぬなんて。信じられなかった。もっと見とけばよかった。会いに行けばよかった。しかも、どうしてこんなにちょうど寂しい時に、悲しい知らせをよこすんだアホ!と何だか怒りまでこみあげてきてしまった。
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- フォルクローレとプロレス。誰にもこんなヘンな2項目につながりがあるとは思えない。でもどういうわけか、私の中で一瞬つながっていたのだ。
- 会いたい人にはすぐ会いに行くべきだ。と、どうしてこういう結論になったのかわかんないけど、次の年にはもうペルーに行ってしまったのである。
- 2000年5月20日
- 母は「もっと普通の外国へ行ってくれ」と言う。
- ペルーに続いてパレスチナなんだから、どう考えても「好んで危険な地域に出かける人」と思われても仕方ないんだが、そんなつもりは全くない。
- 本当のところ私は出不精。というと「何言ってるんだか!」と言われそうだが、細かく言うと、計画性もなく、地図を見るのは苦手、電話嫌い、乗り物酔いするし・・・。
- 総合すると「自分で計画を練って、日程や行程を決め、旅行会社に電話してチケット予約して・・・」というのがすべて自分の嫌いなことだらけなのだ。面倒くさいの嫌い。
- だからこそ、他の人が行かないヘンな場所に、お声がかかる。しかも「お声」をかけた主がちゃんと世話をしてくれる。だから行くのである。
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- しかし最も大きな理由は「珍しいモノ好き」が、その全部を飛び越してしまっている。胃腸が弱いくせに、コンビニで新製品を見るとすぐ買ってしまう。(でもそういうものは、たいてい美学校へ持っていって、友達を巻き添えにして食べる)レストランや喫茶店のメニューを見て一番変な名前の物を注文する(「ペンギン村パフェ」?とか「魔女ラーメン」??とか書いてあると我慢できない)
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- 母が一言「今度は普通の外国へ行ってよね」と言う。
- 普通の外国ってどこだろう?香港とか、ハワイとか、弟が新婚旅行で行ったオーストラリアとか?でもそこには「たまたま」用事がなかったんだもん。
- 別に「どこか外国へ」行きたかったわけじゃないんだよ、ペルーに行きたかっただけだし。パレスチナで展覧会があったから行ったんだよ。と色々説明しても、理解しずらいみたいだ。私も完全には説明できそうもない。
- 2000年5月19日
- 地球のウラ側の心配
- これも去年パレスチナ滞在中の話。
- 東海村の臨界事故のニュースをテレビで見た。アラビア語の放送ばっかでわけわからず、イライラしながらやっとCNNを見つけて、だからといってよく解るわけでない英語を必死で聞く。正確な地名はわからないが、日本のどこかで、アトミックの事故があって、重体者がでている。さっそくクリントンが出てきてコメントしている。
- それはそれは不安だった!
- あわてて弟の妻(妊婦)に電話した。
- 「ウチから遠いから大丈夫ですよ〜。」というのんきな声に、ホッとしたような疑わしいような、何ともいえない気持ちだった。
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- きっとこんな風に、ちがう場所にいる家族を心配させてるのはいつも私のほうなんだ。
- 確かにいつも微妙にトラブルに近いような遠いような場所にいる。初めての海外旅行でヨーロッパへ行ったとき、ちょうどドイツに入国したその日、ベルリンの壁がくずれた。でも私は「ロマンティック街道」(何だかなあ)という場所にいたので、町は静かなもんだった。
- 1回目のペルー旅行の時、リマで爆弾テロがあって商店街がやられたらしい。2回目の時なんか、例の人質事件のまっただ中だった。でも、ペルーを知ってる人なら、リマとワラスが東京と青森ぐらい離れているから、まったく影響ないのがわかるだろう。
- 家族は(っていうか、日本人のほとんどが?)ペルーなんてどこでも危険だと思っているだろうけど。
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- そんなわけで、初めて「いつも心配かけてすまなかったなあ」と少し反省したのが、よりによってパレスチナにいる最中なんだからなあ・・・。
- 2000年5月5日
- 大島監督(渚ではない)
- パレスチナ滞在中、何度か弟や友達にメールを送った。そのうち電話事情が悪くなって(結局インターネットも電話線を使うのよね、何か納得いかない)送れなくなってしまったのだが。
- で、弟からもらったメールに「中日が優勝しました」っていうオマヌケなメッセージが書かれていて、わざわざ海外に送るメールにもっと何かだいじなことあるだろ!とちょっと思った。
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- でもよく考えてみたら、私は家族といっしょに田舎で暮らしていた高校時代、「熱狂的(でもないか)中日ファン」をやっていた。そういえば。
- 元々は母が巨人ファンなのに対抗して、なぜだか巨人にだけ強くて他チームには弱い中日の、中でも巨人戦に限ってよく打つ大島選手のファンだった。
- 1イニング2ホーマー(1つの回に2打席まわってきて、続けてホームランを打つこと)なんてハデなことをやってのける、けど顔が地味だった大島。王や掛布や山本コージもいた時代に、ホームランレースに参加していた(1回はキングになった)けど何っとなく地味な大島。「月刊ドラゴンズ」宛に2回もファンレターを出したけど、返事はくれなかったよ、大島。
- その後大島選手が日本ハムに移籍したので、しばらくは日ハムファンをしていたが、球団ごと地味になってしまい、TV放送にもならないもんだから、だんだん野球も見なくなってしまった。
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- その大島が今年度日ハムの監督になったらしい。
- 王、長嶋、星野、とその頃のスター選手が監督となっている今、大島ってやっぱり監督になっても何となく地味だな、と思った。
- 2000年4月23日
- 情けないにもほどがある
- 悪ふざけをしている時にケガをすると、痛いのと恥ずかしいのとで「もう!死にたい!」と思う。たとえば尻文字を書いてるときに、机の角に腰を強打したり。こういうのを「穴があったら入りたい」というのだろう。
- ふざけていない時、つまり何でもないときにコケたりするのは、痛いし恥ずかしいのは同じだが、一瞬のちには「はなしのネタができた(オイシイってやつ?)」とケロっとしている。
- 学生のころから、朝教室に入った瞬間のつかみのギャグなんかを考えながら通っているヤツだった。
- ある日のこと、教室に入ったら何か空気が重苦しい。クラスメイトが自殺したことをきかされる。
- 友人の死が悲しかったのはもちろんだが、それより、友人が死ぬほど悩んでいた時に、何をやってたんだ私は、と自分が情けなくて情けなくて、屋上のさらにタンクの上にあがって、1時間半泣き続けた。
- 2000年4月21日
- モー娘。(モームス。モーコではない。)
- モーニング娘。の新メンバーに12歳が2人いるらしい。12歳といっしょに仕事する26歳(だったっけ?最高齢の子は)ってどんな気分なんだろ。11歳なら平成生まれ。
- 黄色5とか青色7とか、合成着色料みたいだなーってんで思い出した。ザ・グレート・カブキというプロレスラーは、登場の時と、ピンチの時の2回「毒霧(どくきり)」と呼んでいる緑色の霧をクチから吹くのだが、それに使ってるのがやっぱり緑色7とかそういう着色料だ。体に無害。かな?
- ダンプ松本が極悪メイクをやり始めたころ、油性のマジックを使っていたらしい。汗で落ちないように、ということで使ったものだから、試合後にもメイクが落とせない。ムリに落としたら肌がボロボロになってしまった。ある時アクリル絵の具を教えてもらって、それを使うようになったらしい。
- コギャルさん達のガングロメイク、あれ自体は勝手にすればよろしい。けどアイメイクに油性のマジック!!!!!だけはやめたほうがいいと思う。メイク道具が高い(ていうかあのメイクじゃ減りも早いわな)ので、太さもイイ具合なんで、マジック使ってる、と聞いてびっくりした。化学の先生とか、あんまり役に立たない数式とかやってないで、こういうのをちゃんと教えてあげればいいのにね。
- 2000年4月7日
- 東スポに載った女
- 去年パレスチナに行ってる間、韓国の展覧会にも出品していた。
ところが、本人不在なのだから仕方ないけど、写真がない。作品を代わりに持ってってもらい、無事に返してもらい、主催団体が気が利かないぞ!なんて大声で言えないんだけど、それにしても、実感がない。
- 立派なカタログも作ってくれたんだが、なまじ自分が印刷の仕事に携わっているだけに、印刷物なんかいくらでも簡単に作れちゃうと知っているので、それを証拠には思えない哀しさ。
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- 証拠写真といえば・・・・
- 唐突だが以前プロレスの花束嬢をしたことがある。
15年ぐらい前、なぜだかプロレスマニアをしていた。そのころ何かのコネで、新日本プロレス(猪木のほうネ)のリングに上がったのである。高田延彦(現・向井亜紀のダンナ)対 越中詩郎(いかにもマニアしか知らなそうな名前だ)の因縁のタイトルマッチで、リングアナウンサーに「花束渡したら危ないからすぐ逃げて」と言われていたが、本当にすぐ花束で打ち合いになって、一瞬にしてリングから転げるように下りてしまった。
- その時の、写真がないのである。友達も誰ひとりカメラを持ってなく、上記の話しの証拠になるような記事もなく、ホラ話しにきこえてしまうのがムナシイ。いや、そこまでして人を笑わせようとは思わないけどね。
- 同じころ、ある女子プロレスの会場で、場外乱闘に巻き込まれそうになって必死に逃げ回る姿が、スポーツ新聞に載ってたらしい。それも2-3日後友達からの電話で「アンタ何やってんの!?」と言われて気づいたのでその新聞は自分では見ていない。
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