〜日記のようなコーナー〜
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- 2006年7月25日
- W氏盗作事件に思う・1
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- この話題があってからもう2ヶ月くらい経つけど、
- 「タイムリーなコメント」はブロガーの人に任せているので、
- 書いてほったらかしてあった。検索に引っ掛かるのも嫌だったし。
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- 美術界のことがこんなに話題になったのなんて、生まれて初めて見た。
だいたい「皇室の方が観賞された」「芸能人が個展を開いた」
それ以外でテレビで絵のことなんか取り上げるのを見たことが無い。
- よっぽど話題がなかったのか、あってもまだ表に出せない段階だったのか、
事実、村上ファンドや、秋田の事件などが動き始めたとたん、
まったく話題から消えたので、やはり「つなぎ」だったのだろう。
おかげで○○賞の選考のしくみとか、知らないことが色々わかったり、
絵にとって構図がいかに大切かを改めて思ったり、
学生に戻ったような新鮮さだった。
W氏が「絵を並べて見ればわかる」と、しきりに言っていたのは、
あくまでも生の絵で、テレビ画面上でそれをやったもんだから、
かえって「同じじゃん!」って結果になってしまった。
まずS氏は油絵で、W氏はテンペラ画と、画材が違う。
たぶん、本当に生の絵を見れば風合いがかなり違うだろうと想像する。
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テンペラ画というのは、油絵のようにチューブから出して即描ける訳ではなく、
顔料と溶剤を混ぜて絵の具を作るところからはじめるから、
その手間ひまが、すでに達成感に満ちているんじゃないかなあ?
石版画をやっていると、
石磨き、目立て、角落し、第一製版、第二製版、インク作り、刷り、
(とくに私は描くのが早いからなぁ。。)描画の10倍ぐらいその「作業」に費やす。
描画にしたって、クレヨン、溶き墨、ベタ、ヌキ、削り、転写、etc...
そうやっていると、時々技法に熱中しすぎて、描く題材はどうでもよくなる。
- つまり、とてもマニアックな世界に入り込んでしまうのだ。
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いや本人決して、どうでもよいとは思っていないのだけれど、
絵そのものの魅力というか、力というか、そういうものが失われていくことがある。
きっと、他の版画の人もそうなんじゃないかな?
でも、元々しっかりとした構想があったら、
版画にすることによって、このうえさらに色々な工夫ができて、
- ただ勢いで描いただけの絵とは違った、
落ち着いた、より完成度の高い作品となることもある。
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W氏のいう「共同制作」とは、この点を言いたいのかもしれない。
まあ気持ちはそうでも、S氏が認めないんだから、
- ダメなもんはダメだろう。単純な話なのに。
もしもS氏の絵を、版画にしたら? 逆版(絵を左右裏返しにする)にしたら?
色を変えたら? 描かれた人をイタリア人→日本人にしたら?
どの段階で「模写に見えない」と判断されるかわからないが、
そこまでする意味がわからない。ていうか全然楽しくないし・・・。
いやまてよ、絵を描くのが楽しいとか面白くないとか考えるのって私だけ?
絵描きは絵を描くのが楽しいんじゃないのかなあ?どうなんだろ?
あ、でも模写が楽しい人もいるかもしれない。
20数点も模写し続けられたのは、よっぽど模写が楽しいかS氏の絵が好きか、
あとはS氏の絵を単に自分の絵の下絵として考えているか。
手元にW氏の個展のチラシを持っている。
去年の8月〜9月にやったもので、私は旅行に行ってる最中だから見に行けなかったが、
色合いや題材が日本人離れしていて、ちょっと面白そうだった。
S氏が今まで日本で全く無名だったのも、いかにも日本人ウケしなさそうだから、
画商が注目しなかったのだろう。
S氏とW氏の「二人展」をやったら、今なら相当客が入ることだろう。
これが実は二人で仕組んだ目的だったら面白いなぁ。
- W氏盗作事件に思う・2
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- ペルーのサッカーのマスコットの盗用事件について、
その後2〜3人の方から、メールや声をかけていただきました。
国際弁護士を紹介するとまで言ってくださった方などもいらして、
尻つぼみになってしまって申し訳なかったのですが、
何しろ気力と体力がないと乗り越えられない問題でした。
当初ペルーのサッカー協会は
そのマスコットをワールドカップまで持っていく!という勢いで、
それに私も反応し、ワールドカップで世界中にテレビ放映されるのはムカツク!
なんて思ったりしたものでしたが、よく考えてみたら、
ペルー・・・そんなにサッカー強くない。
いえ、日本はじめアジアやアフリカ各国よりは選手の層も厚いし、
本当は強いのかもしれないけど、
強豪揃いの南米の中でトップにはまずなりそうにない。
というわけで、あれから3年、やはりワールドカップにペルーの姿はない。
そんなことを思い出させたのが、あのW氏の盗作事件。
あそこまでソックリさんが横行するのを目の当たりにしたら、
私の事件なんて、カワイイもんに思えてしまうぐらい!
あれが盗作でなかったら、絵の世界に著作権なんて存在しない。
- ホント、もう!なんとかしてよ〜〜って気持ちで見守っていた。
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○○賞とか、○○会、絵の値段、評論家の評判、など、
もともと実態の解らない「絵描き」に後ろ盾をつけるための、
W氏が今回失ったものとは、ほとんどの絵描きが持ってないもので、
それを「制裁」と呼ぶのはどうか疑問だが、
まあ、いったんくれた賞を取り消すのはやはり制裁かな?
もともと持って無いのと、有ったのに失ったのはやっぱり違うだろうから、
ものすごい痛手のようでもあるし、
その反面やっぱり痛くもかゆくもないような気もする。
そういうわけで、現在のW氏の心境など、残念ながら想像つかないのである。
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- 2006年7月24日
- キンピカ霊柩車
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- 最近あまり霊柩車を見かけないような気がする。
私の言う霊柩車というのは、あのハデハデピカピカのお神輿みたいなアレのことで、
最近は黒い長い一見普通の車が主流らしい。
神輿を作る職人が減ったみたいに、霊柩車の職人が減ったのかな?
と思って調べたら、そういう理由ではなくて、
葬儀場の建設に反対するような町では、あの霊柩車が頻繁に通ることも不評だそうで、
あの黒い長い地味な車を使うようになったらしい。
あの黒い長い車(以下、黒長車と略す)は、ライトバンかと思ったら、
じつはリンカーンとか、そういう立派な種類の西洋の車らしい。
初めて黒長車で棺を運ぶのを見たのは、あるマンションでお葬式があった時で、
大きなマンションなので会ったこともない知らない人がたくさん住んでいるから、
誰かが死んだとかそういう個人情報はあまり表に出さないほうがいいのだろう、
という配慮かと思ったのだが、考えすぎだったみたい。
どうも、あの黒長車って、霊柩車っぽくなくて、私は嫌だなあ。
ピカピカ霊柩車を見たら「あっ親指隠さなきゃ!」と思うが、
黒長車では、棺を運んでいるのか、荷物を運んでいるのかわからない。
普通の荷物を運ぶ車を見て親指を隠してたらカッコ悪いではないか。
迷信というのは、一種のゲームだと思う。
「親の死に目に会えない」とかいう理由は、とっさには出てこないが、
なんとなく、サッと親指を隠す瞬間、スリルがある。
エンガチョを切る瞬間にも似ているが、大人は普通エンガチョなんてやらない。
しかしなぜか親指隠しは大人がやっても良い。
もしも私が死んだら、あの昔ながらのハデハデピカピカの霊柩車に乗りたい。
道行く見知らぬ人達にも、あわてて親指を隠してほしい。
「ママ、何やってんの〜?」
「親指かくしなさい!早く!」
「片方〜?両方〜?ねえ、何で〜?」
「両方!あとで説明するから!」
・・・なんて会話があったら嬉しいではないか。
余談だが、携帯でメモろうと思ったら「霊柩車」と変換されなかった。
やはり最近は使われない言葉なのか?代わりに「例鳩舎」と変換されたが、
鳩小屋のほうがよっぽど珍しいと思う。
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