〜日記のようなコーナー〜
何事もなかったかのように生長し続けるゴムの木。庭に放置してたのでホコリまみれ。

        
2005年11月15日
たまには芸術の話
           
日曜日イサムノグチ展を見に行こうと思って木場まで行ったが、あまりに混んでいてすぐに戦意喪失した。
土曜に一日で個展3つ見て美学校で刷って世界堂で画材買ってプリントゴッコ刷ってという離れ業をやった反動か。
上野の美術館でも見たいのがいくつかあるのだが、行った人に聞くとやはりとんでもなく混んでいるようだ。
まあ、公立の美術館が混んでいるのは良いことだ。税金の無駄遣いとか言われないで済む。
     
右手のひらが痛いので何だろうと思ったら、久々にプリントゴッコで刷ったせいらしい。
あれは、子供でも簡単に刷れるという発明品だったはずで(プロジェクトXでやってた)
そんなに力一杯押さなくてもいいのだが、クッションがききすぎて、いくらでもめり込み、
「カチッ」と鳴るとこまで押してしまう。何か手ごたえがないと刷った気がしない。
(ぜんぜん芸術の話じゃないじゃん!)
       

        
2005年11月14日
アチョー先生
     
アチョー先生が亡くなったのは去年の今ごろだったらしい。
         
私は就職してからずっと、仕事がとくに年末忙しかったため、
「年賀状はお正月の本当にめでたい気分の時に書くのだ!」
と、へ理屈をこねて年明けに出す習慣だった。
毎年毎年、先生から先に年賀状をいただいてしまうので、
内心恐縮しており、結婚を期に年内に年賀状を出すようにしていた。
それでも元旦に間に合う期限までに出せないことが多く、
今年こそはこちらが先に出そうと、期限前にはりきって出した。
しかし、今年に限って先生から年賀状は来なかった。
松の内がすぎてから「寒中見舞い」が来たので、
ああ喪中だったか、と思ったら差出人は先生の奥様で、
亡くなったのは先生ご自身だと知った。
         
アチョー先生は私達が中2の時が大学を出たての新任だった。
阿部長吉という名前の阿と長をとって、
当時流行っていたブルース・リーの物まねのもかねて、
男子は「アチョー!アチョー!」とふざけては怒られていたが、
「先生」をつければ怒られなかったような気がする。
担任になったことはないが、
中学の2〜3年の頃、5クラスすべてが若い先生で、
先生同士もいつも和気あいあいとしていて、
生徒達もちょくちょく職員室に遊びに行くような雰囲気だった。
とくに私は全校でも屈指のお調子者だったようで、
5人の先生の似顔絵でマンガを描いて学級新聞に載せたりしていた。
マンガをとがめられることは一切なかった。
(それが今に続いてるのかな?)
       
う〜〜む、この時期はどうも人が死んだ話しばっかになっちゃう。
喪中はがきがボツボツ届き初めてややウツ気味になるんかな。
          

        
2005年11月13日
エピソード下手
     
本田美奈子でまず思い出したのは、鼻の穴が小さすぎて綿棒でほじくっていた、
という昔友人から聞いた、あまりにもしょうもなすぎる話。
私が芸能人とかそういうコメントを求められる立場でなくてよかった。
夏に亡くなったAちゃんの追悼会でも、
みんな、こんなことやあんなこと初めて聞くこと、いろいろあったのに、私は
「彼女はいつも悩みながら描いていた。もっと気楽に描けばいいのに・・・」
なんて、いっそう悲しくなるようなことしか言えなかった。
       

        
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